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2018年8月2日木曜日

第7回研究会のお知らせ

第7回研究会

蔵持 不三也 (早稲田大学名誉教授)
 「奇蹟と痙攣―近代フランスの宗教対立と民衆文化―」

日時:2018年9月29日(土)13:00~
会場 :東方学会ビル2F会議室(千代田区西神田2-4-1)
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奇蹟と痙攣―近代フランスの宗教対立と民衆文化―
 すべては1727年5月、パリの下町にあるサン=メダール教会の助祭フランソワ・ド・パリスが他界したことから始まる――。パリの名門法服貴族家の長男として生まれながら、家督を弟の高等法院評定官に譲り、清貧と苦行、そして貧しい小教区民への奉仕に明け暮れた彼が埋葬された教会墓地で、次々と奇蹟が起きる。医師たちから不治を宣告された病人たちが、この高徳をもって知られた助祭の墓で祈り、奇蹟的に快癒したのである。そのあまりの殷賑ぶりに危機感を抱いた教会・治安当局は、1732年1月、墓地を閉鎖してしまう。翌月、教会の壁に1枚の風刺文が貼り出された。「王命により、神がこの場所で奇蹟をなすことを禁ずる」。奇蹟とはまさに現実=体制を超克する出来事でもあった。
 しかし、墓地閉鎖後も奇蹟は相次ぐ。驚くべきことに、これら奇蹟的快癒者たちが多くは公証人、若干は自らの手で快癒までの経緯を事細かに記し、証人たちの証言も添えた報告書を作成したのである。その数、数百。無名の民衆が自らの言葉で語り、それを記録化した事例はそれまでのフランス史にはなかった。こうして民衆は自らのライフストーリーを歴史に刻印した。
 だが、パリスの奇蹟はそれで終わらなかった。彼がガリカニスム(フランス教会独立主義)を唱えるジャンセニストで、ジャンセニスム弾劾の教勅「ウニゲニトゥス」の撤回を求める上訴派でもあったことから、奇蹟を神意によるとするジャンセニストとそれを欺瞞・虚偽とするイエズス会との文書闘争が1733年を頂点として激化していった。
 さらに、快癒の前に、病人たちがしばしば痙攣を起こしたことから、1730年代後葉から、この痙攣を中心的な教義とし、イエスや殉教者たちの受難を追体験する「スクール」(救いの業)と呼ばれるファナティックな自傷行為、さらに預言者エリヤの再臨、ユダヤ人の改宗などを唱えるセクト「痙攣派」がいくつも出現するまでになる。彼らはジャンセニストを自称していたが、「正統派」ジャンセニストや教勅に反対するために創刊されたジャンセニストの機関紙《聖職者通信》などから非難され、治安当局からも弾圧された。
 そしてフランス革命期の1790年、ジャンセニストのグレゴワール神父が制定に深くかかわった聖職者民事基本法と、1801年のボナパルトとローマ教皇ピウス7世とが結んだコンコルダート。痙攣派はジャンセニストと同様、それを受け入れるかどうかで分裂し、信者や共鳴者たちのメシアニズムをついに満足させられぬまま衰退し、最終的には精神医学の発展によって、痙攣が神意とは無縁の神経症に起因することが立証されて歴史の襞に埋没していった。
 一方、ジャンセニストがいつまで存在していたかは不明だが、こうした「パリス現象」の根底には、歴史の生態系によって構築されたイマジネールをみなければならない。このイマジネールは民衆のイマジネーションを規制し、革命の叫びとも交錯する「民衆の声」=世論を醸成した。そして、啓蒙思想家たちから批判されたにもかかわらず、「民衆の啓蒙時代」を間違いなく象徴するその声は、革命期を過ぎても終息することはなく、フランス社会の近代化プロセスに重要な位置を占めることになる。

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※東方会館会議室使用料として4千円を出席者(学生除く)で分担いたします。
※参加人数把握のため、michinokai.2017@gmail.com(@を半角にして)に以下の内容をご返信ください。
1.研究会:参加の有・無
2.懇親会(同会場を予定):参加の有・無